親心
2019年6月6日
こんにちは。
今日は親心について書いてみたいと思います。
私の父は心配性な性分で、特にわが子のことになるといちいち口を出してきては娘たちにけむたがられる(笑)ような親でした。
私が成人し離れて暮らすようになってからも、会うと必ず「お元気でやっていますか?大丈夫ですか?」と尋ねてくる人でした。
私を何歳だと思っているのかしら?とその都度可笑しく、元気だよと笑って答えていました。
わが子は幾つになっても心配は尽きないものだ、とよく聞きますが、
父が高齢になり、老いて弱くなっても、その挨拶だけは欠かしませんでした。
親が子を思う庇護の力とはそういうものか、と思っておりました。
私も子供がおりますので、親としてのその気持ちは良く理解できました。
しかし、最近になって、あの毎回の「お元気ですか」の意味は、子を心配するそれではないのだ、と思い始めました。
父自身、自分が確実に老いていく日々、
かつての働き盛りの自信がゆらぎ、できることが少なくなり、口には出さない先の不安はいつもあったことでしょう。
父は予測不可能な未知の世界を歩き、迷い、異なることに出くわし悩みつつ進んでいたのではないでしょうか。
若く力があっても、老いていても、全ての人の先に待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない世界です。
「お元気ですか」は、そんな世界を歩き続ける者同士としての挨拶だったのかな、と思うようになりました。
人生は旅にたとえられます。
その旅は公正には報われないことも多い。
不条理な正解のない問いに、何度もぶち当たりながら、学び、時に後悔し、そして学ぶ旅です。
私も父も、幾つになっても同じです。
あの言葉は、良かったとき悪かったときを織り交ぜながら進む、
旅人同士が目を合わせ交わした挨拶だったのだと思い当たりました。
親子とは、家族とは、その旅の途中のひととき同じ船に乗り合わせた縁でつながった一人なのかもしれません。
そろそろ私も、ゆっくり子離れを考える時期に来ているのでしょうか。
こどもと一緒に広がる世界が子育てであるならば、
これからは、共に生きてゆく時代。
巣立って行く寂しさが、ふっと手放せるような気がしてきました。
厳しく逞しくしなやかに、渡り切るのが精一杯の世間の波間をお互いどうにか泳ぎながら、
「お元気ですか」
と挨拶を交わす、そんな上手に子離れのできる親になりたい」。
体ばかり大きくなり、時に反抗し、時に甘え、時に大人ぶるわが子を眺めつつ、最近はそんなことを思っています。
受付 菊地